移動小説

中村
は手すりに掴まりながら残った手をカバンにつっこんで
真っ黒な文庫本を取り出した。床に置いた紙袋からはみだした
ローズマリーの匂いが混んだ車内の緊張を緩和している。

先ほどからうつむき加減の美智原は紙袋をちらりと見た後にがっくりとうなだれた。
サンダルからのぞく指先がたまにピクッと痙攣しているのは
うとうとしている証拠だ。それでも携帯ゲーム機を掴んでいる両手はがっちり固定されていて
決して取り落とすことはなかった。


「タイトルと表紙には惹かれましたけどね。
他の短編の統一感のなさにはがっかりでしたよ。」
前評判を圧男の口から聞いてはいたものの
ひいきの作家の新作を見た瞬間にレジへ運んでしまうのは
”信頼”というよりも”習慣”のせいだろう。
中村は今、その本を読んでいる。


「次は~絵古多~。絵古多です~。」
急行だと小説を読むには少々時間が足りないが。
各駅を通過する最終電車の歩みの遅さはちょうどいい。
そういえば飛行機や電車やバスによる移動があるときはいつも
黒い文庫本を・・・・・・

その作家の小説を読むと何か得たいのしれない液体を頭の血管に
注射されたのではないかと思う。
読んでいる最中はもちろん読後もしばらく頭の中の新しい部分が
開けたような感覚をもたらされるのだ。
夢から醒めたけれど余韻をのこしたままベットにいるときのように、
見えている景色と文章から生み出される景色が重なっていて
自分はそのどちらにもいるような気分になる。

しかし中村は3ページ位めくったところですぐにカバンにしまった。
さっきまで海で散々泳いだ上にアルコールも入っているのだから
揺れる車内で立ち読みをするというのは身体的に辛いものがあった。
ただ、本を閉まったのはそれだけが原因ではなかった。

『なぜだろう、まったく本の中に入っていけない。』
情景が浮かばないわけではなかった。
まるで不感症になってしまったような気分だ。
文字がニュースみたいにバックグラウンドでただ流れている。
怪奇的な描写があっても『死因は心不全でした。』と言われてるだけのように思える。

つまりおもしろくないのだ。
だが中村は小説がおもしろくないのではなく
自分の体調がそうしているのだと思いたかった。
それに圧男が言っていた『短編の統一感のなさ』についても検証しないといけない。
中村は自分に言い聞かせようとした。
アイデアの目新しさだけに捕らわれる時期は過ぎたのだ。
一度読んだだけで面白さのわかるものばかりではないのだ。

「テレレレレレレッテーテッテー」
となりでレベルの上がる音が聞こえた。

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